ピカソくんへ愛を込めて
ピカソくん、君は苦労人だね。
ここで言うピカソとは勿論スペインが生んだ大画家パブロ・ピカソのことであり、その巨匠に対して、いきなり苦労人だなどと、まったく無名のボク称する私が言うのは、勿論それなりの覚悟のあってのことである。
では、以下ボクの告白にもどる。
大体キュビズムなんてものをやったのはかなりつらかったろう。
一言で言っちゃえば、対象を平面上に多角的に立体を描く
そりゃあ
君の気持ちもわかるような気もする
でも
これはボクの個人的意見だから
気にしないで聞いて欲しいんだけど、
あんまりすきじゃないなあ
ジョルジュ・ブラックなんて人がピカソと並ぶキュビズムの代表格であったりする訳なんだけど、そんな名前を丸の内OLに「クイズ100人に聞きました」みたいにやってみたら、
『ベルサイユのばら』の主人公の一人である男装の麗人オスカル・フランソワ・ジョルジュの名前を知ってる人が100人、ブラックジャック、無免許だが腕は天下一品の外科医の名前を知ってる人は90人いても、ジョルジュ・ブラックの名前を知ってる人は、『キャンディ・キャンディ』の丘の上の王子様であり、またアードレー家の当主ウィリアム大おじさまでもあり、キャンディのあしながおじさんでもあるが、実はいつも身近にいたアルバートおじさんの執事である口髭のジョルジュを知っている人より少ないであろう。
なぜなら、丸の内OLは子どもの頃、『ベルサイユのばら』や『キャンディ・キャンディ』は読んでも、大人になってジョルジュ・ブラックの絵画は鑑賞しないからである。また丸の内OLはセザンヌの印象画やミュシャのアールヌーボーは好んでも、ブラックの難解さは好まないのである。大体、丸の内サラリーマンの彼氏(もちろん丸の内OLの彼氏は丸ノ内サラリーマンである)が部屋に来たとき、セザンヌやミュシャの複製画が飾ってあればセンスがいいと言うだろうが、ブラックの幾何学が部屋にあったら彼は戸惑うであろう。そして常に物事を考えることの嫌いな彼はその絵を無視するであろう。なぜなら人間は自分の理解を超えるものに対して無意識のうちに畏怖を感じその存在を否定し自己を防衛する利己的な本能を持っているからである。よってブラックの絵を部屋に飾る女は理解できない存在であり、彼の恋愛の対象にはなりえないのである。そのことを勿論承知の利口な丸ノ内OLは仮にブラックの絵画をを好んでも決してブラックの絵は飾らないのである。そんな心配をボクがするまでもなく彼女たちにとってブラックと言えばコーヒー以外の意味は持たないのである。もっともセザンヌであろうとミュシャであろうと丸の内サラリーマンは絵を鑑賞したり解釈することになどに時間と気力を浪費したりしないのである。。それより会社の取引で動かした金額の方が大事なのである。ところでこの金は勿論会社の金なのだが、彼らはさも自分の金を動かしたかのように自慢し、自分の金だと錯覚している傾向がある。でも彼らは気づくことも考えることもない、ブラックの絵の値段が彼らが動かす金額より大きいことなど、決して考えはしない。もとより彼らにとって絵は投機対象に過ぎないのである。もっとも彼女の部屋に上がった時の彼の関心事はそんなところにもなく、健康な男子としてのひとつの欲求があるまでのことである。
でもボクは丸ノ内サラリーマンではないので、いくら考えても1銭の金にもならないキュビズムのことなど考えて一晩過ごしたりするのである。
そんなボクが一晩かけて考えました。
ピカソくん
ボクはやっぱり
青の時代
好きだなあ
青い人物に青い背景
BLUE ON BLUE
ボビー・ヴィントンの歌はボクのお気に入りだ、もちろん「BLUE VELVET」も、
ハリウッド・ランチ・マーケットのBLUE BLUEの服も結構好きだ。
マドンナも『TRUE BLUE』まではアルバムを買ってた。
竹宮恵子のマンガ『地球へ』のソルジャー・ブルーはかっこよかった、特に虚弱体質なところが。
保育園の頃は、お絵かきの時間、保母さんに「なんで青のクレヨンばっかり使うの、クレヨンは12色あるのよ」
なんてよく言われた。
信号機の色で最初に覚えたのも青色だった。
そして小さい頭を空に上げればいつも限りない青の世界が広がっていた。
それは今も変わらない。
ボクの少年時代はこれくらいにして、
青の時代を過ぎた君は、
ばら色の時代と呼ばれ、二十代の若さでだんだんと幼児退行していったね
誤解しないでほしいけど、決して悪い意味で言ったんじゃないよ
スタイルを次々に変える君の姿は一見自己を追求し続ける哲学者のごとく、
音楽界で言えば、カメレオンの異名をとったデヴィッド・ボウイ
漫画界では『BE FREE』でデビューしたくせに『まじかるたるるーとくん』なんて書いちゃう江川達也
同じくマンガキャラクターに於いては、女優からデザイナー、作家、写真家へと次々と変態の脱皮を遂げる手塚治虫著『人間昆虫記』の主人公十村十枝子、と言った具合。
そして、君の幼児退行はさらに進んだ。
人間最後は子どもに戻ると言うけど、君くらい聡明な人だと
ひとより先に子どもに戻っていったのだろう。
聖書の中でイエスも言っている
「幼子のようなものが神の御国に入れる」のだと
おそらく幼い頃から親しんだ聖書の言葉を無意識にそして忠実に守っていたのだろう。
子どもに還った君は外に出ると迷子になるほどで、お家のひとと一緒でないとおもてに出られないくらいにまで子どもになった。すごいと思うよ、ボクにはまだできないもん。
余計なことなんだけど、まだ迷子になれないボクが思うに君は造形にメインを置いてこそ、君の本当の実力が発揮できたようにも思える
キミが早くから造形に目覚めていればモジリアーニと並ぶ画家彫刻家の名を手に入れていたかもね。
ボクがもしキミなら迷わず造形に行ったね。
やっぱり生まれた時代だね、皮肉にも。
とか言いながら実はボクもしょっちゅう迷い子になってるんだ
このあいだも
美術館で
「迷い子のお呼び立てを申し上げます
八王子からお越しの
青いシャツを着て
青い顔をした
二十八才くらいの男の子を見かけましたら
受け付けまで
お知らせ下さい」
なんて言われちゃって
てっきりボクのことだと思って
受け付けに行ったら
そこに誰が居たと思う
キミだよ
キミ!
あの時はばつが悪かった
あの深閑とした沈黙たる美術館で
おんなじ顔して
おんなじ服着た
大の大人が二人
受け付けの
学芸員だとか名乗る
三才位の女の子に
ニラまれちゃって・・・
さも「いい大人がふたりもそろって・・・」とあめ玉を喰わえながら言いたげだった。
その時ボクらは初めて口を交わしたんだ。
誤解しないでくれよ、唇を交わしたんじゃない。
ボクにはそういう趣味はないから。
ボクらは、
「あなたも迷子ですか」
「ええ、そういうあなたも」
「なにしろ美術館というやつは無意味に広いようで、私なんかわざと順路がわからないように設計されているんじゃないかと思っているんですよ」
「なるほど、私は今まで美術館というものにとんと縁がなかったもんで、今日は念のため方位磁石を持ってきて迷わないように気をつけていたんですが。あっはっは、いかんせん、やってしまいましたよ」
なんて社交辞令的な会話を交わしながら
お互いが同じ境遇にあることにお互いが共感を感じて
その後意気投合といったよくある具合で、
また同じ傷を心に持つもの同士、
傷を舐めあうようにボクらは貪るように、
お互いの不幸を語り合ったんだ。
生きるとは
幸せとは
人間とは
話題は尽きなかった。
結局結論は答えを見つけることは難しいことであり、それこそが答えであった。
それからボクらはさもそれが自然なことであるかのように
日が暮れ始めると、上野から日暮里へ流れ、安酒場で酒をやった。
あーあ
あの夜はヤケ酒だったよ
飲まずにいられなかった
何バイ飲んでも酔えなかったさ
もっともボクが何杯も飲んだのはカルアミルクだったんだけど、
そのおかげで、次の日はお腹こわしちゃって、朝からトイレに籠りっきりで、
上から下から涙を流しっぱなしだった。
トイレの水と一緒にその涙は悲しみと苦しみと一緒に下水道に流れちゃったけどね。
でも上から出る涙は真珠だとか青春の汗だとかといい意味で言われるのに、
下から出る涙は同じ涙なのに、いいふうに譬えられないね。
お腹ピーピーだとか言って、大体ピーピーって音はまるで昔の日本映画を深夜のテレビで観ているとき、放送禁止用語が出てきた時に流れる無機質な電子音みたいだし、一般的にはくだらないトーク番組で出演者が放送できないような下世話なギャグを言った時や、誰か個人名の悪口を言ったときなどに、そのセリフを隠すために使われている。
どっちにしろ何か汚いもの後ろめたいものを隠す時に使われる音だ。
おんなじ涙なのにね、上から出るか下から出るかで、ひとの対応も随分違うもんだ。
ボクはある時期北朝鮮の存在にひどく脅威を感じていたんだ。
だが、そんなボクもキムチは大好物でね
うまいって評判の店でキムチラーメンを食べたんだ。
その時はおいしくってね、ご満悦だった。
まんざら北朝鮮も悪くないなんて、国民感情もよい方向へ向かっていったんだ。
ところがどうだ、翌日の朝、
真っ青な顔でトイレに駆け込んだ。
ボクは苦しかった。辛かった。
そうなんだ、ボクは既に北朝鮮の脅威に侵されていたんだ。
ボクはその日一日をトイレで過ごす羽目になったよ。
そこで思ったんだ、
キムチは北朝鮮の日本への実力行使であると、
当時よくマスコミで報道されていた、ノドンやテポドンは見せかけのダミーで、実はキムチこそが最大の兵器だったのだと。
そのことに気づいた時、ボクは北朝鮮の脅威を正に体感し、身が震える思いだった。
だって君よく考えてごらんよ
キムチがある日大量にばらまかれたら
日本中、国民は一日をトイレで過ごすことになる。
もちろん人口に対してのトイレの数は絶対的に不足しているから、ある種のパニック状態がおこるだろうね
そこに足立区のトイレはまだ安全だなどと根拠のないデマゴーグが流れる。
民衆は足立区に押し掛ける
そこで獲得競争が起こる
当然弱いものは目的を果たせない
足立区民対よそ者との対立も起こるだろう
そうした異常事態は普段からの生活への不満と重なり、自然と暴動になる
民家の放火や商店街の強奪が始まるだろう
その暴動は山火事のように広がる
首都圏から近郊へ、そして地方都市へと飛び火する
一日で日本は壊滅状態だ。
情報網が麻痺したところに、日本海上に無国籍潜水艦が現れ、一網打尽と言った寸法だ
正に恐るべしの一言だよ。
そして日本と大陸との交易が始まる
そして島国ニッポンと大陸はひとつに。そしてグローバル化する。
そして日本は大陸から沢山のことを学ぶ
日本と大陸とのファースト・コンタクトはこんな具合だったらしい
ボクらの時代の教科書では、そうなっていなかったが平成の教科書では各社が揃ってその説に統一されていて、今時の中学生ではそれが常識なんだ。今年の都立高入試にも関連した問題が出ている。
そしてボクと君、ピカソ君も島国と大陸という海の壁、日本語とフランス語という言語の壁を乗り越え、交友が友情に変わり、お互いが互いを必要とするようにまでなり、真の信頼関係を交わすようになったんだ。
そう、思い起こせば
あの時ボクらは初めて出会ったんだ
あれからボクは貪るようにキミから色々のことを学んだんだ。
友人の自殺、ボクにとって最初の女性エヴァとの失恋、オルガ、聖パウロの教え、ハプスブルク家の血を引くマリア・テレジアとのロマンス
人生でためになると思ったことは全部キミから教わったと言っても過言じゃない。
あの頃は楽しかったね。
楽しいだけじゃなくお互いが充実してた。
君の後を追ってパリとバルセロナを往復していた頃、
正にボクはあの時
生きていた、そして活きていた。
今思えばあの頃が一番楽しかった。
でも
出会いがあれば別れもあるとひとは言うじゃない
そこで考えたんだけど・・・
ボク達 もう会うのよさないか
その方が君にとってもいいと思うんだ
君は君の道
ボクはボクの道を行くよ
「サヨナラだけが人生だ」
君は知らないだろうけど
井伏鱒二って日本人が
洞窟に探検に入って
そこがあんまり居心地がいいから、そこに家を建てた
そして何年もの間そこで一匹の蛙と暮らしてたんだ
そこまでは家庭も上手くいき平穏でよかった。
でもある日、家で足りないものを買いに
そこから出かけようとしたら
頭がつっかえて、そこから出られなくなった
そんな有名な逸話と山椒魚の渾名を持つ(なんでこの渾名が付いたかはいまだ不明)作家がそう言ってるんだ
でもその作家も蛙もそうなったことに後悔はしてないんだぜ。
日本人は今ある一見不幸な境遇にも耐え忍び、そこに喜びさえ感じる崇高な習性を持っているんだ。
それをある人は諦観と呼び、ある人は悟りの境地とも呼ぶ。
ボクはどちらにも共感できないけどね。
まあとにかく
さよならだけが人生だ
これだけは真実だ
だからボクはキミに敬意を表してフランス語で
さよなら
アデューと言おう
キミはボクに
あれ、君はー、日本語わからないでしょ
ハァー、しかたないな
よし、分かった
ボクらのさよならの記念に
君に日本語の単語をひとつ教えてあげよう
さーy!
"O.NA.RA"
言ってごらん
なかなか上手いじゃん
ちょっとRの発音が巻き舌で言葉になってないけど
初めてだから今日は許してあげよう
ボクは寛大な男だって
周りでは通ってるんだ
まあそれはいい
意味はね
愛だよ、愛!
l'amourさ
人生において一番大切なものだ
しかも愛は目に見えない
ボクのちいさな王子様が
「目に見えないものが大切なんだ」って教えてくれたんだ。
彼はきつねに教わったらしいけど。
そしてボクは君に一輪のバラを贈ろう。
ただのバラじゃないよ、
ボクが一生懸命水をあげて、太陽にあてて、虫が付かないように、夜風にさらされないように育てた大事な一輪のバラだ。
大切に大切にボクがしたように、かわいがっておくれ。
これでボクも気が済んだ
「じゃあボクはいくよ」
あー家帰って寝よ
家路につくボクであった
ボクは疲れ切っていたし
風呂に入ろうと思って
バスタオルを探していると
ない、ない、ない。
母さんに聞いてみると、
「古くてみすぼらしいから捨てちゃった、まだゴミ箱に入ってるんじゃない」
「そう、お気に入りだったのにな
あれ、ピカソのキュビズム時代の絵が描いてあるんだよ」
「えっ、そうなの
なんだか、子どもが描いた絵みたいで
福祉のバザーかなんかで子どもが描いたのを、売っていたのかなんかかと思ってたわ」
「うーん、母さんはピカソの名前も作品も知らないけど、今のは核心を突いた感想だ。
見直したよ
母さんは芸術が分かるんだね」
「失礼しちゃうわ、私だって、カルチャーセンターの西洋美術史や万葉集の会に行ってるのよ」
「よし、分かった
今度、母さんと芸術についてゆっくり語ろう、
いつがいいかな
ちょっと待って、今手帳見るから
えっと、今度の週末は『ガラスの仮面』再読、とあるから、ダメだ、がんばっても丸二日はかかる。
よし、来週の月曜日だ
BLUE MONDAYに、芸術を語るなんて
なんだか
アイロニカルって感じでいいね
きっとアンニュイな語り合いになるよ
よし決めた
朝まで生討論だ
議題は[二十一世紀に向けて明るい日本社会の建設とその芸術の役割]なんてどう?
きっと白熱すると思うよ。
結構母子でつかみ合いの討論になったりして、
よし、それを防ぐために司会役として田原総一朗を読んでおくよ。彼はテレビ朝日の『朝まで生討論』で冷静かつ沈着な司会者として中立を保つともっぱら定評の人物なんだ。
前にボクが素人討論大会に出たときのコメンテーターをしていたのをきっかけに、いまでも毎年年賀状をやりとりする間柄なんだ。
きっとボクら母子のためなら司会の務めを喜んで引き受けてくれるよ。
うん、彼なら大丈夫、決して口角に唾を飛ばしながら討論者を怒鳴り散らすなんてことをする、どっかの司会者とは違うから、うん、彼なら信用できる」
ボクはゴミ箱の中からピカソのバスタルを拾うと、風呂に入った。
ざぶーん、
風呂に優る快楽はなし、風呂嫌いなんてひとの気が知れないよ
特に冬場なんて、冷えた足を熱い湯船に入れた瞬間、足先がじーんと暖まってくる感じがして、
オヤジでなくても、思わず、
うー、極楽なんて言葉が自然と出てきたりする。
みんなこんな気分で毎日を過ごせたらどんなに幸せだろう。
きっと戦争も犯罪もなくなるだろう。
そんなことを考えるでもなく物思いに耽っていると
もう小一時間経っていた。
昔母さんに叱られたっけ
働きもしない学生のあなたが偉そうにそんなに長風呂するんじゃない、なんて
まあ、あの時は母さんの機嫌が悪かったんだろうけど、
まったくボクは昔から長風呂だからな、
疲れた時なんてぬるま湯だったら何時間でも入ってられる。
そこまで風呂好きなボクだけど、温泉はあんまり好きじゃないんだよな。
風呂はやっぱり家で入ってこその娯楽だ、これがボクの持論。
百歩譲って近所の銭湯だね
やっぱりたまには広い湯船に浸かりたい
これがひとの正直な気持ちってもんだ、
こんなことを考えているともう一時間半にもなってる
そろそろ名残惜しいけど、出よう
ピカソのバスタオルで体を拭くと
体が痛い
さすがにもう数えきれない年月このバスタオル(その前は、王貞治ホームラン756号記念タオル)を使っていたので、
表面はゴワゴワ、
皮膚がヒリヒリしそうだ。
母さんの言うのももっともだ。
今日を最後にこのバスタオルも引退だ。
ボクは念入りに体を拭くと、
今後のこのタオルの使い道に思案した。ボクは物が捨てられないタイプだから。
脱衣所を出ると、
母さんが
「今日は短かったじゃない、あなたにしては」
「ああ、ボクもそうそう風呂にばっかり浸かってらんないよ、やらなきゃいけない事は星の数ほどある。
あと、さっきの討論の件だけど
ひとつ言っておくけど
これだけはお互い守ろうね
次の日、仕事へ行くこと
と言ってもお母さんは専業主婦だから
仕事場が家だから
ちょっとはお母さんの方が楽だね
んじゃ、そういうことでボクは寝るよ」
「あなた寝るって言ったって、毎晩遅くまで起きて、何やってるの」
「なっ、何って、年頃の息子にそんな・・・いっ、いや、あっ、ごめん、今日は早く寝るよ、十二時には寝る」
ボクは二階の自分の部屋へ行き、ピカソのタオルを襖の扉にピンで留めて貼り付けた。
そのタオルはもうピカソの絵がうっすりと残るほどで、他のひとが見ればただの使い古されたただのタオルにしか見えなかっただろう。
それから
ボクは鉛筆をとってメモを書き
布団の近くに置いてある目覚まし時計にセロテープで貼り付けた
そのメモにはこう書かれていた
「十二時に寝ること」
でもって
今ボクはこうやって
この文章を書いている。
でもここでひとつ困ったことがあるんだ
それはね、
時計の文字盤の上にメモを貼っちゃったから
今何時かわからないんだ
それがボクの悩み
唯一にして最大の悩みなんだ
わかってくれるかな、
この気持ち
なんて言うのかな
胸にクギとまでは言わないけど
チクッタクッと針で刺されたようなこの痛み
ボクは結局
これを書き終わって
時計のメモをはがして時間を見ると
何と六時
六時って、午後六時じゃないよ
AM
寝なくちゃ
最近不眠症で
薬もらってるから
それを水も飲まずに
ガリガリ ゴクッと
一気に飲んだ
男樹だ!
それは本宮ひろしだ!
でもあえて男気ではなく男樹という言葉を使いたい。
えっと、七時に起きるから
うーん、一時間しか寝れないや
まっ、いっか
ボクは床についた
薬の力はボクの昂揚した心から聖水で悪霊を追い払ったように
憑き物がが落ちたように落ち着き、
小川のせせらぎのように
静かに
そして
心安まる
そしてボクは
眠れる森をさまよった
そこは暗くもあり明るくもあり
静かでもあり騒々しかった
笑う者もあり泣く者もいた
喜びの歌を歌う者もあれば苦しみに喘ぐ者もいた
あたかもそこは世界の始まりでありまた終わりであるように思えた
そこはいわゆる御国と呼ばれるところなのかもしれないと思った
そこで出会ったのさ
彼と
ピカソとさ
彼は眠っていたよ
静かな森の中を流れる小川のほとりの牧場小屋で、
死んだように眠ってた
いい顔をして眠ってた
お気に入りの青と白のボーダーシャツを着て。
遊び疲れた子どものようにも見えたが、
また大往生を遂げた老翁のようにも見えた。
そしてボクは彼が幸せなのであることを悟った。
だからボクも無理に起こさなかった。
起こしてはいけないと思った。
それが御霊に従うものであるように思えた。
でも一瞬思ったよ
体を思いっきり揺さぶって
「起きろよー、何時だと思ってんだー」
とか、
布団引っぱがしちゃうとか
いきなり水かけるとか
その時の彼のあわてた顔が見てみたいなんて思った
彼の慌てぶりを思いっきり大声で笑って
寝ぼけ眼の彼に「おはよう、お帰りなさい」
なんて微笑んで言ってみたかった
そして彼に濃いコーヒーを入れてあげて
どんな夢を見ていたのか彼に聞きたかった。
そしたら彼が、
「ああ君か、実は長い夢を見てたんだ」
なんて言ってくれるような気がした
でもボクも今まで随分ひどいことをしてきたけど
これだけはできなかった
あんまり気持ちよさそうに眠ってたし
それに
まあ、ボクも人の子かな
なんて
ちょっと照れちゃたりして
恥ずかしかったよ
そう、
自分に対しても、彼に対しても恥ずかしかった
そしてなにより今までのボクの罪に対して、
さらに、これからもボクが犯すであろう罪に
神さまに対して恥ずかしかった
だから心の中に杭を新ためて打ち込んで許してくださいますようにってお願いするんです。
これがボクの気持ちなんです
なんてったって、恥を知る民族日本人の血がボクの中には流れてるんだ
ボクは夕日に向かって大きく叫んだよ
「生きてるって恥ずかしいー」
その後、言葉は「ボクらはみんな生きている」の替え歌に変わり、
いつのまにか手のひらを太陽に透かしていた
そしてボクは初めて気がついた
ボクの血潮が真っ赤に流れていることを
そしてその赤い血が十字架の御子の贖いによるものであることを
この文章の主人公の気持ち、
みなさん
分かりましたかー、分かった人は手をあげてー
なんて小学校の先生のように、みんなに問いたいんだけど
止めとこ
ズルする奴がいるから
こっそり目を開けて
周りの様子を伺って
大多数に賛同する輩が
必ずいるから
それがまた日本人の特性であるから
それをまた学校で社会で散々思い知っているから
ボクはもうそういった人間はなるべくなら見たくないから
ひとを試すのは好きではないから
また試されるのは入試で懲りているから
試されるひとの立場や境遇を考えてしまうから
そしてボクはそれをすれば
きっと悲しくなるから
ひとが試されるのはヨブ記におけるヨブでおしまいで、
彼により人間の神に対する忠誠は既に証明されているから
ボクが今さらあえてひとを試すまでもない
また神以外ひとを試す権利はないと思うから
だからボクは黙っている
ひとから何を言われようと
ボクは毎日ひとからデクノボウと呼ばれ、
バカにされて生きているほうがいい
「ハイ、今日の授業はおしまい
二十分休みだぞー
外へ行け、外へー」
教室の中でぐだグダ変な絵なんか描いてるんじゃないぞ
体育教師の槻野は言ったが、無視してやった
あいつ嫌いなんだ
もう卒業したおれの兄貴が運動神経よかったからって、比較しやがって
「おまえは兄貴と違ってダメだなー」
何回言われたことか
トラウマだよトラウマ
何っ、ウルトラマン
教養のない奴め
だから体育教師は○△□なんだ
なんて言うと体育教師に対する差別発言なので、悪いのはあくまで槻野だけだ。
それに野島伸司作『高校教師』の中で、
赤井英和が既に体育教師にも骨のある人間がいることをドラマの中でもって証明しているから。
この発言もボクの軽い冗談であることはみんな理解してくれることと思う。
テレビドラマはその時代を写す鏡である。
連日マスコミが報道する教師の不祥事により市民が教師に対する信頼を失いつつある事実は、マジメにやってる立派な教師たちにとってはえん罪に価するほど心外であることをボクは察する。残業代が付かない全国のマジメな教師たちは家に仕事を持ち帰って、生徒共々宿題に追われている。
これもまた事実である。
事実はひとつでありまた真実もひとつである。
そして真理はまことにひとつである。
それは全てのひとの罪の贖いのために、神のひとり子である御子自らが十字架に掛けられたことである。
そしてボクら人間は、神がねたむほどにボクたち人間を愛していることを知った。
愛が神であり、神は愛である、
これこそ最高の真理である。
そしてボクはみんなのいなくなった教室で一人
「愛」という言葉を覚えて
次に、ノートに鉛筆で落書きすることを
そして、机にシャーペンの先で落書きを彫ることを覚え
最後に、ノートの升目に収まらないほど大きく書くくせに下手くそな「愛」という字が書けるようになった
それからだな
友だちが何人かできるようになったのは
だからなんとかやってるよ
心配しなくていいよ
今でも友だちは少ないが、
当たり障りのない会話とおいしい食事と酒でつきあうような関係は苦手なので、
知り合いと呼べる人間は沢山いるが、友だちと呼べるのは数人だ
でも寂しくもないし、悲しくもない
まあたまには人恋しくなったりするけど、
それは世間でよく言う寂しいとは違うように思う。
むしろボクはその感情を好む
あえてボクは自分を孤独の中に置く。
だから今どき携帯電話も持たないので、ちょっと変わった奴だと思われている。
夜誰かのことを思いだしても、その人に気軽に電話したりしない。
もしろその人のことを考えたり、最近はどうしてるかなと想像することを好む。
だからボクはこんな手紙を書いているのだろう。
だから
「たまにはパソコンにメールの一本でもくれよ
ああ、アドレス渡すね
はい、コレ」
受け取った友人はメモを見ると、
そこには
picaso@zo-net.ne.jp
と書かれてあった
これを見て
その友人は言った
「君は自意識過剰だな」
「まっ、そんなところだ
笑って許したまえ
でもこんなのボクのちょっと知ったやつに較べれば
可愛げのある過剰さ
太郎って奴なんだ
初対面なんだけど
いきなりアドレス渡してきてね
ボクからなんでも忍者とか武士道のこととかいろいろ聞きたいんだってさ。武道の経験もないボクにだぜ
アカウントがTARONTINO
てなってたんだ
ボクがおやって顔をすると
「ボク、タランテイーノに似てるでしょ」
て歯並びの悪い口をにやりと見せて笑うんだぜ
一瞬、ぞっとしたよ
その場は適当に相づち打っといたけどね
危なそうなやつだったから
ボクも成り行きでアドレスを仕方なく渡したんだ
2時間後に家に帰ってメールチェックしたら
メールがきてた
怖かったね
もちろん返事なんて出さなかった
そしたら
たまたまその後会った時
何で返事くれないんだって
詰め寄るんだぜ
返事を強制しないのがメールのルールだって初めに聞いたじゃん
まいったよ
まあ、そいつとはそれっきりだけどね
まったくウンチな奴だった。
でもボクは思うんだ
結局人間なんてみんなうんちなんだと
神が造りたもうた人間
神のうんちが人間
人間が創るものなんて
糞
ボクらが創るものはなんてもんはクソみたいなもんだ
だからぼくらはみんなうんちなんです
絵本作家の五味太郎さんも「みんなうんち」って
言ってるし、ウンチって言葉は柔らかな親しみのある感じがして好きだな。
またウンコって言うと、硬い感じがしてどうもダメなんだ。
クソなんて言うと、なんか投げやりで捨て鉢で下品な感じで好きになれない。
ってことで、
「みんなうんち」ってことで、
ボクも含めてみんなうんちとして
うんちによる
うんちのための
うんちな生き方をしていきたいね
そしてゆくゆくは
立派なうんちになりたい
そしていつかは母なる大地のもとへ
土として帰りたい
御国におられる父なる神の心にかなった
一握の土塊として
そしていのちの書のどこかに
自分の名が刻まれていることを
ボクは切に願う